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蕎麦の匂い

作:門歩 鸞

 私の勤務する呼吸器内科のクリニックに 50 代のある男性が訪れた。名古屋大学の付属病院で胸膜中皮腫と診断され、抗がん剤治療を続けていたが、大学病院での治療を諦めて、このクリニックの門を叩いたという。

 彼の病状は深刻だった。検査体制も充実し、高度な治療を受けられる大学病院に戻るよう、何度か促したことがある。しかし、彼はその都度、転院を断った。
およそ半年が経っても、症状に改善は見られない。その頃には、さすがの私も彼に転院を無理に勧めることはしなかった。この先、病状の回復が見込めないものであったからだ。しばらくしてから、彼は在宅での治療を希望するようになった。

 彼は、大須商店街に近いマンションに一人で暮らしていた。私が月に2回ほど、看護師が週2回訪問するというかたちで、在宅診療が始まった。病院での時と違い、自宅での彼の表情は生き生きしていた。建築会社で現場監督をしていた当時の昔の思い出話もよく聞かされた。この部屋の内装もすべて自分で手がけたという。
緩和ケア病棟やホスピスケアの話も提案したが、自宅の中で、極力一人で過ごしたいという。ここで一人で旅立つのだと、彼は同じ言葉を繰り返した。
11 月に入って、彼の病状はかなり悪くなっていった。年末には妹さんが来てくれるのだと、彼は教えてくれた。彼女は近くに住んでいるらしかった。

 大晦日の 31 日。彼はまだ話すことができ、水分をとったり、自分でトイレにも立った。彼の強い希望で、商店街にあるなじみの店から好物の蕎麦を出前で頼んだ。彼はその匂いだけを嗅ぐと、
『後は食べてくれ』とだけ言って、水だけを口にしたという。
年が明けた二日の夜、妹さんに見守られて、彼は静かに旅立った。年明けすぐに、この話を妹さんから聞かされた。弔問を希望したが、すでに身内だけで簡単な葬儀を済ませたという。
私は彼のレントゲン写真を前にして、カルテに記す最後の言葉をなかなか書けずにいた。

蕎麦の匂い