幻のアゲハ
「由紀、まだ暑いけど空はもう秋だね。」
玄関ホールを出て、真っ青な空を仰ぎながら妻に言った。長者町から護国神社の前を通って名古屋城の東側から名城公園の中を反時計回りに1周して帰ってくる。それが私たち夫婦の朝の日課だ。
長者町は昭和の繊維街だ。北の歴史と伝統、西の庶民的抜け目なさ、東と南の現代的息吹の狭間にあって、雑多なエネルギーをふつふつと発している。朽ちていくことを断固として拒み、新しい思考と器によって再生を繰り返す。大きな人口を抱え狭い国土しか持たない日本が続ける生存のための闘いのミニチュア版だ。
石油ショック後、繊維から金型へと商売替えした後も、私は新旧東西が混在、共存するこの街に留まった。橦木町に建てた家に息子夫婦が移り住んだとき、長者町の生家はマンションに建て替え最上階を自宅とした。
散歩道脇に植わっているヤブカラシでは蝶や蜂が採餌している。
「今年の夏はアオスジアゲハが多いね。自然界の青ってなんか特別な感じがする。」
青は由紀の一番好きな色だ。青いアゲハが2頭、くるくると回りながら空高く舞い上がっていく。草木や鳥たちのことを話す5キロの道程はあっという間だ。
やっとゆっくり一緒に過ごす時間が取れるようになった。経済の荒波に揉まれる小舟の船長のわがままに本当によく付き合ってくれたと思う。還暦を迎えたとき、「ありのままの自分で残りの人生を過ごすの」
と言って白髪を染めることを止めた由紀の髪はプラチナ色だ。
帰り道、再び護国神社の前を通ると、緋色の袴を着けた巫女さんたちが正門前を竹箒で掃いている。外堀通りを渡りマンションの前に着く。玄関ホールに入るときに由紀が段差に躓いた。私は咄嗟に支えようと手を差し伸べた。私の手はいるはずの由紀の体を突き抜けて空を切った。
もっとここに居たいような、星になった由紀の元へ早く行きたいようなアンビバレンスに目を閉じた。
作品の短評
オケ太郎
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